旋盤のうねる音が響き、塗料のにおいがうっすらと漂う。雑多な町工場が集まる路地裏に、その木工製作所はあった。大阪府八尾市のアパートで今年2月、母(57)とともに遺体で見つかった息子(24)がかつて働いていた仕事場だ。
息子の名前を伝えると、83歳になるという社長ははっきりと覚えていた。
「ああ、まじめな子やったで、素直で。こっちが説明していると、じいっと聞いて。口数は少なかったけどな」。ハローワークを通じて申し込みがあり、日給8千円で見習いから始めてもらった、という。
拡大する息子が働いていた木工作業所。ソファの枠組みを製造していた=大阪市平野区
八尾市などによると、息子は高校を卒業してから約5年間に、八つの仕事を渡り歩いた。すし店、電気工事、金属製品塗装、病院事務、パチンコ店……。一番長く続いた職場が9カ月。ほかは1~6カ月で辞めていた。わかっている限りで最後となるのが、ソファの枠組みをつくるこの木工製作所だった。
「いやいや、最初は木なんか切らせられへん。まずは、ごっついホチキスみたいなもんで木材をくっつけるところからや」
独立していたはずの息子は、母のアパートで、母の隣で見つかった。低体温症で、死後10日ほど。息子は母のもとを離れてから、どこでどう過ごしていたのか。そしてなぜ、母と同じ屋根の下で最期を迎えることになったのか。悲劇なのか、自己責任なのか、それとも――。二人の足取りを追う連載の3回目。
仕事を始めたのは2018年11月6日。社長の手元にタイムカードが残されていた。
入 …
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